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数日後。
馬車の修理を待つあいだ、コメルはすっかりアーヴェルたちと打ち解けていた。
怪我が落ち着いてからは、アーヴェルやトーラ、それにミリカも加わり、村の中を案内したり、川へ釣りに出かけたりして一緒に過ごした。
ほんの数日ではあったが、四人にとっては十分だった。
そして、馬車の修理が終わると、別れの日がやってきた。
フィンリッジ村の入口には、旅支度を整えた馬車が停まっていた。
横転した際に傷んだ車輪や車軸はすっかり修理され、二頭の馬も元通り馬具につながれている。荷台には、この村で仕入れた薬草や薬が積み込まれていた。
「本当に世話になったな」
御者台の脇に立ったロケルが、見送りに集まったアーヴェルたちを見回した。
そこにはアーヴェルとトーラ、それにミリカも来ている。
「今度は俺たちが礼をする番だ。ウグネルに来ることがあったら、必ず店に寄ってくれ」
「うん!」
トーラが元気よく答えた。
「コメルも元気でね」
アーヴェルが声をかけると、荷台にいたコメルが笑顔で手を振った。
「アーヴェルたちも!」
やがてロケルが御者台へ乗り込み、ペドラも馬車に乗った。
二頭の馬がゆっくりと歩き始め、馬車が村の入口から街道へ進んでいく。
「じゃあなー!」
遠ざかっていく馬車に向かって、トーラが大きく手を振った。
コメルも荷台から身を乗り出すようにして、何度も手を振り返している。
馬車はそのまま街道を進み、やがて村を囲む木々の向こうへ姿を消した。
◇
それからしばらくして。
いつもの朝の鍛錬を終えたアーヴェルは、自宅の庭に置かれたテーブルで一冊の本を開いていた。
ロケルからもらった『英雄クラウス物語』だ。
すでに最後まで読み終えていたが、それでもアーヴェルは、また最初のページから読み返していた。
少し離れたところでは、トーラとミリカが木剣を手に向かい合っている。
「だから、ここはもうちょっとこうだろ?」
「違うって。こうじゃない?」
鍛錬はとっくに終わっているというのに、二人は構えについてあれこれ言い合っていた。
そんな二人を横目に、アーヴェルが再び本へ目を落としたときだった。
「キーヴァル、ちょっといいか」
声とともに庭へ入ってきたのは、バークスだった。
「どうした?」
「リューベンから話は聞いたか?」
「いや。何かあったのか?」
バークスはキーヴァルのそばまで歩み寄ると、声を落として告げた。
「アウルベアが出た」
「アウルベア?」
キーヴァルの表情がわずかに変わった。
「なんでまた、こんなところに?」
「さあな。キーヴァル、急で悪いが見てきてくれるか?」
「ああ、分かった。場所は?」
「山菜を採りに行った奴が、北の廃坑付近で姿を見たらしい」
「分かった。すぐに出るよ」
二人の会話を聞いていたトーラが、真っ先に声を上げた。
「キーヴァルさん、俺も連れてってくれ!」
「駄目だ」
バークスが即座に答える。
「なんでだよ!」
「アウルベアは人の言葉を理解するほど頭のいい魔物だ。長く生きた個体の中には、俺たちと同じ共通語を話す奴までいる。それに、雷属性の魔法まで使う。子供がついていっていい相手じゃない」
「でも、キーヴァルさんもいるんだろ?」
「そういう問題じゃない」
「俺、絶対に邪魔しないから!」
「駄目だと言ってるだろ」
二人のやり取りを聞いていたアーヴェルも、手にしていた本を閉じた。
アウルベア。
名前は知っている。
けれど、実際に見たことは一度もない。
「……僕も、見てみたい」
「アーヴェルまで何言ってんだ」
バークスの眉間に深い皺が寄る。
「遊びじゃないんだ! いい加減に――」
「バークス」
声を荒らげるバークスを、キーヴァルが制した。
「同行させるだけなら問題ない」
「しかしなあ……」
「もちろん、戦わせるつもりはない。遠くから見せるだけだ」
キーヴァルは、アーヴェルとトーラへ目を向けた。
「こいつらも、フラッファーくらいなら自分たちで狩れる。ゴブリン相手でも、一対一なら倒せるだろう。だからこそ、自分たちじゃどうにもならない相手がいることも、そろそろ知っておいたほうがいい」
バークスは黙ったまま、キーヴァルを見ている。
「怖いと思うことは恥じゃない。何が危険なのかを知っていれば、逃げなきゃならないときに逃げられる。それも、生き残るために必要な経験だ」
しばらく考え込んだあと、バークスが大きく息を吐いた。
「……分かった」
「やった!」
「ただし!」
喜びの声を上げたトーラを、バークスが鋭く睨みつける。
「条件が二つある。絶対に手を出すな。それから、何があってもキーヴァルの指示に従え」
「分かった!」
「うん、分かった」
「よし、じゃあしっかり装備を整えてから行け」
◇
村を出て北へ向かう道中、キーヴァルは二人にアウルベアについて話した。
アウルベアは、大きな身体と凄まじい膂力を持つだけの魔物ではない。
非常に知能が高く、人の言葉を理解する。さらに、長く生きた個体の中には、自ら共通語を操るものまでいる。
さらに雷属性の元素魔法を使うことができ、近づかなければ安全という相手でもなかった。
「魔法まで使うのかよ……」
トーラが不安そうに、腰の剣へ目を落とした。
「ああ。だから絶対に勝手なことはするな」
「分かってるよ」
「アーヴェルもだぞ」
「うん」
二人の返事を確かめてから、キーヴァルは続けた。
「相手を見て怖いと思ったら、それでいい。無理に立ち向かおうとする必要はないからな」
「でも、怖がって逃げるのって格好悪くない?」
トーラが尋ねると、キーヴァルは迷うことなく答えた。
「死ぬよりはずっといい」
あっさりと言い切られ、トーラが口を閉じる。
「自分より強い相手なんて、いくらでもいる。何が危険なのか分からない奴のほうが危ないんだ。逃げるべきときに逃げられるようになれ」
それからしばらく歩き、三人は森の奥に残された古い廃坑へたどり着いた。
入口の周囲には草が生い茂り、長い間、人の手が入っていないことが一目で分かる。
キーヴァルは坑口へ近づくと、しゃがみ込んで地面を確かめた。
踏み倒された草。柔らかな土に残された、大きな足跡。
しばらく痕跡を追ったあと、キーヴァルは立ち上がった。
「二人とも、ここで待ってろ」
「え?」
トーラが不満そうな声を上げる。
「俺が中を確認してくる。お前たちは、坑口が見えるところまで下がって待ってるんだ。この距離なら何かあってもすぐに対処できるからな」
「わ、わかった」
キーヴァルの口調には、有無を言わせないものがあった。
「もし俺が戻れと言ったら、理由を聞かずに村へ戻れ。いいな?」
「うん」
「うん」
二人の返事を確かめると、キーヴァルは坑道へ数歩入ったところで、松明に火を灯した。
アーヴェルとトーラは言われた通り、坑口から距離を取り、木立の陰から様子を窺った。
しばらく待っても、何も起こらない。
風が梢を揺らす音だけが聞こえている。
「……いたのかな」
アーヴェルが小さく呟いた、そのときだった。
「それ以上近づくな!」
地の底から響いてくるような低い声が、坑道の奥から聞こえた。
「……っ!」
トーラが息を呑む。
アーヴェルも思わず身体を強張らせた。
やがて、坑道の暗がりからキーヴァルの姿が現れた。
何かを見据えたまま、ゆっくりと後退している。
右手は剣の柄のそばにある。
そして――その向こう。
坑道の闇の中から、巨大な影が姿を現した。
「……あれが……」
アーヴェルは目を見開いた。
大きい。
遠くから見ているにもかかわらず、その巨体が放つ存在感は圧倒的だった。
熊を思わせる四肢。その肩から続く鳥のような頭部。鋭い嘴と、こちらを見据える大きな瞳。
アウルベア。
知識としてしか知らなかった魔物が、そこにいる。
次の瞬間。
肌を刺すような威圧感が、坑口から一気に広がった。
「……っ!」
アーヴェルの身体が強張った。
距離がある。
キーヴァルも二人の前にいる。
それでも、身体の奥から湧き上がってくる恐怖を抑えることができなかった。
隣のトーラも同じだった。
腰には、ロケルからもらったばかりの剣がある。
だが、そこへ手を伸ばそうという気持ちすら起こらない。
怖い。
頭で考えるよりも先に、身体がそう訴えていた。
そんな二人とは対照的に、キーヴァルは立ち止まったまま、静かにアウルベアを見ていた。
「……この威圧を受けて、眉一つ動かさぬか」
アウルベアの低い声が響く。
さらに強い威圧感が放たれた。
それでもキーヴァルは剣を抜かなかった。
ただ、相手の様子を見ている。
いや――。
キーヴァルが見ていたのは、アウルベアそのものではなかった。
その大きな身体の陰。
そこから、小さな影が顔を覗かせた。
アウルベアの子供だった。
「……子供がいたのか」
キーヴァルの表情から、わずかに緊張が抜けた。
そして剣の柄のそばにあった右手を、ゆっくりと下ろす。
「悪かった。子連れとは知らなかった」
アウルベアは何も答えない。
ただ幼体を庇うように立ち、キーヴァルから目を離さなかった。
「こっちも無駄な戦いをするつもりはない。すぐに離れる」
キーヴァルはそう告げると、一歩ずつ後ろへ下がり始めた。
アウルベアは追ってこない。
坑口から出ることもなく、ただこちらの動きを見定めている。
十分に距離を取ったところで、キーヴァルはようやくアーヴェルたちのほうへ向き直った。
「見たか?」
アーヴェルは黙って頷いた。
トーラも、いつもの勢いはどこへやら、真剣な顔で頷いている。
「じゃあ、戻るぞ」
「うん」
二人が歩き出したあと、アーヴェルはもう一度だけ振り返った。
暗い坑口の前。
巨大なアウルベアは今もそこに立っている。
その身体の陰から、小さな幼体がこちらを覗いていた。
だが親と思われる大きなアウルベアは、一歩もその場を離れようとはしない。
まるで、我が子と外の世界との間に立つ壁のように。
アーヴェルはしばらくその姿を見つめたあと、前へ向き直り、キーヴァルたちの後を追った。