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教会へ着くと、すでに何人かの子供たちが机に向かっていた。
古びた教会の壁には、大小さまざまな絵が飾られている。神話や聖人を描いたものもあれば、森を彩る草花や、雪に覆われたフィンリッジの風景を描いたものもある。
どれも、この教会の司祭であるカシアンが自ら描いたものだ。
開け放たれた窓から朝の風が吹き込み、机に広げられた紙をかすかに揺らしている。
「遅い!」
二人の姿を見つけるなり、ミリカが声を上げた。
「仕方ないだろ。診療所に寄ってたんだから」
アーヴェルが答えると、トーラもその横で大きく頷いた。
「そうそう。俺たちは忙しかったんだよ。なんたって昨日、人助けをしたんだからな!」
「二人とも、お話はそこまでにしましょうか」
穏やかな声に振り向くと、カシアンが二人を見て微笑んでいた。
「遅れた分は、しっかり勉強してくださいね」
「はーい」
二人は空いている席へ腰を下ろした。
フィンリッジ村には学校のような正式な教育機関はない。そのため村の子供たちは週に三度、この教会へ集まり、カシアンから読み書きや一般的な常識、道徳などを教わっている。
アーヴェルは渡された課題に目を通すと、すぐに手を動かし始めた。
紙の上を文字がすらすらと埋めていく。
一方、その隣では――。
「うー……」
トーラが頭を抱えていた。
少し離れた席では、ミリカも紙と睨み合ったまま手を止めている。
「なんでこんなに似た文字がいっぱいあるのよ……」
ミリカが小さくぼやいた。
アーヴェルはちらりと二人を見ると、小さく笑って再び紙へ目を落とした。
しばらくして、課題を終えたアーヴェルが顔を上げる。
隣から、先ほどまで聞こえていた唸り声が消えていた。
トーラは机に頬杖をつき、目を閉じている。
その前に、いつの間にかカシアンが立っていた。
「トーラ、起きなさい」
「……起きてる」
「目を閉じている人は、普通は寝ていると言うんですよ」
周りの子供たちから、くすくすと笑い声が上がった。
トーラはようやく顔を上げ、眠そうに目を擦った。
「司祭。今日は朝から診療所に行ってたから」
アーヴェルが助け舟を出す。
「ああ、聞いていますよ。昨日は二人とも、お手柄だったそうですね」
カシアンは二人の働きを認めるように、穏やかな笑みを浮かべた。
「でも、居眠りをしていい理由にはなりませんね」
そう言いながらアーヴェルの紙を手に取ったカシアンは、課題を確かめるうちに少し感心した様子を見せた。
「全部できていますね」
「うん」
「アーヴェルには、このくらいの読み書きはもう簡単すぎますね」
「えー!」
真っ先に声を上げたのはミリカだった。
「私、まだ半分も終わってないのに!」
「だからちゃんと勉強しろよ」
「お兄ちゃんだけズルい!」
「なんでだよ」
教会の中に、子供たちの笑い声が広がった。
◇
昼過ぎ。
家へ戻ったアーヴェルは、自分の部屋の机に一冊の本を置いた。
今朝、ロケルから礼としてもらった『英雄クラウス物語』の第一巻だった。
英雄クラウスの物語は、アーヴェルも幼い頃から何度となく聞いてきた。
戦によって両親を失った少年クラウスが、父の遺した剣を手に鍛錬を重ね、やがて軍へ身を投じる。類いまれな剣の才と戦術の才能を発揮した彼は、数々の戦いで功績を重ね、いつしか人々から英雄と呼ばれるようになった。
物語の始まりは、ブレノリア大陸北方。
後に大国となるエルネストが、まだ小さな公国だった頃。
紅い湖、ラーカスト湖のほとりにある小さな村エンゴーサで、幼いクラウスは父と母に愛されながら穏やかに暮らしていた。
しかし、八歳の冬。
公国の北境で戦が始まり、父は兵として徴集される。
――すぐに戻る。
そう言って家を出た父が、再びクラウスの前に姿を見せることはなかった。
アーヴェルはページをめくった。
一枚、また一枚。
何度も聞いたはずの物語なのに、文字を追い、挿絵を眺めながら読むと、まるで初めて触れる物語のように感じられた。
気がつけば、外から聞こえていた村人たちの声も、窓辺を通り過ぎる風の音も、耳に入らなくなっていた。
どれくらい、そうしていただろう。
「アーヴェル」
階下から母の声が聞こえた。
「なに?」
「もうすぐ夕食ができるから、お父さんを呼んできてくれる? ハースルートにいるはずだから」
「うん、分かった」
アーヴェルは返事をすると、読みかけのページに目印を挟んで本を閉じた。
◇
村で唯一の酒場兼宿屋、ハースルート。
アーヴェルが扉を開けると、酒と料理の匂いに混じって、村人たちの話し声が聞こえてきた。
一階には二十席ほどの酒場があり、二階には旅人を泊めるための客室が六部屋ある。決して大きな宿ではないが、薬草を求めて村を訪れる旅人や、仕事を終えた村人たちが集まる憩いの場となっていた。
「こんばんは、マルタさん」
「あら、アーヴェル。こんばんは」
女将のマルタに挨拶を返され、アーヴェルは店内を見回した。
父の姿はすぐに見つかった。
キーヴァルは奥の席でバークスと向かい合って座っている。
そして、二人と同じ卓にはロケルの姿もあった。
その隣には、息子のコメルも座っている。
大人三人の前には酒の入った杯が置かれていた。
「父さん」
「ん?」
キーヴァルが振り向いた。
「母さんが、もうすぐ夕食だから帰ってきてって」
「ああ、もうそんな時間か」
キーヴァルが杯を置いたそのとき、酒場の扉が勢いよく開いた。
「親父! おふくろが、もう飯だから帰ってこいって!」
入ってきたのはトーラだった。
「あれ、アーヴェル」
「トーラも?」
「お前も親父を呼びに来たのか?」
「うん。母さんに頼まれて」
「俺もだ」
二人は顔を見合わせた。どうやら、迎えに来るタイミングが重なったらしい。
「なんだ、二人とも迎えが来たのか」
ロケルが愉快そうに笑った。
「悪いな、アーヴェル。これだけ飲んだら帰るから、ちょっと座って待っててくれ」
「うん」
キーヴァルに言われ、アーヴェルは空いている椅子に腰を下ろした。トーラもバークスの隣へ座る。
卓上には酒のほか、香草を使った料理がいくつか並んでいる。
「そういえば、ロケルさん」
キーヴァルが口を開いた。
「昨日はあんなことになって聞きそびれたが、今回は何を仕入れにフィンリッジまで?」
「薬草とポーションだよ」
ロケルはそう答えると、杯を傾けた。
「ウグ=ネルでも手に入るんじゃないのか?」
バークスが尋ねる。
「もちろん手には入るさ。ただ、最近は少し事情が変わってきてね」
ロケルは杯を卓へ戻した。
「シネスタディアとの国境で、小競り合いが増えてるんだ」
キーヴァルの表情がわずかに変わった。
かつてベルモーシア公国軍に所属し、シネスタディア方面の防衛隊を率いていた彼にとって、その名は馴染みのないものではなかった。
「そんなに増えてるのか?」
「少なくとも、ウグ=ネルじゃ怪我人が増えてる。そうなれば当然、薬草もポーションも売れる。特に回復力が高くて質のいいものはね」
ロケルは口元に笑みを浮かべた。
「需要が増えているなら、商人にとっちゃ商機だ。品薄になってから慌てて探すより、今のうちに仕入れ先を確保しておいた方がいい」
「なるほどな」
バークスが感心したように頷く。
大人たちが話を続ける中、アーヴェルはロケルの隣に座るコメルへ目を向けた。
「コメル、もう怪我は大丈夫?」
声をかけると、コメルはすぐに頷いた。
「うん。もう大丈夫」
そう答えて笑う姿は、朝に診療所で会ったときよりも元気そうに見えた。
「今朝も言ったけど、本当にありがとう。二人が見つけてくれなかったら、どうなってたか分からないから」
「だから、俺たちは見つけただけだって」
トーラが少し照れくさそうに言った。
「でも、あそこで見つけてもらえなかったら、助けも来なかったよ」
「まあ……それならいいけど」
トーラはそう言いながら、どこか嬉しそうだった。
アーヴェルは昨日の光景を思い返す。
街道から外れて横倒しになった馬車。外れた車輪と、辺りに散らばっていた荷物。
そこで、ふと気になった。
「そういえば、コメル」
「なに?」
「どうして馬車、あんなところで倒れてたの?」
「あ、それ俺も聞きたかった」
トーラも身を乗り出す。
コメルは少し考えるように視線を上げた。
「街道を走ってたら、急にワイルドボアが飛び出してきたんだ」
「ワイルドボア?」
「うん。馬がびっくりして、急に暴れだして……」
コメルは両手を動かしながら、そのときの様子を思い出す。
「父さんが手綱を引いてたんだけど、馬が暴れて、馬車がすごく揺れて……。そのとき、ペドラが僕を庇ってくれたんだ。そのまま馬車が街道から外れて、そこからは僕もよく覚えてなくて……気がついたら診療所にいた」
「じゃあ、あの馬二頭がいなかったのも、そのとき逃げたからか」
トーラが納得したように頷く。
「たぶん。あとで二頭とも見つかったって父さんから聞いたよ」
「よかったね」
「うん」
コメルが笑う。
アーヴェルは、昨日草むらの向こうに横たわっていた馬車を思い浮かべた。
昨日はただ壊れて横たわっているだけに見えた馬車も、そこへ至るまでにはそんな出来事があったらしい。
「ワイルドボア一匹で、あんなことになるんだな」
トーラが呟くと、コメルも小さく頷いた。
その間にも、隣では大人たちの話が続いていた。
「それで、わざわざこんな辺境まで来たのか」
「フィンリッジの薬草は質がいい。それに、ここで作られるポーションも通常のものより回復効果が高い。多少遠くても、足を運ぶだけの価値はあるさ」
フィンリッジで採れる薬草は、古くから質の高さで知られている。それらはツァダルをはじめ、公国内の各地へ運ばれ、錬金術師や薬師たちによって薬品やポーションの材料として使われていた。
アーヴェルは黙って大人たちの話を聞いていた。
シネスタディア。
国境。
小競り合い。
どれもフィンリッジで暮らす彼にとっては、どこか遠い場所の出来事のように思えた。
つい先ほどまで読んでいた本の中でも、戦によってクラウスの暮らしは大きく変わっていた。
けれど、それは昔の物語だ。
国境で起きている小競り合いも、自分たちの暮らしを変えるようなものには思えなかった。