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その日の夕食は、いつもより一人少なかった。
食卓には、焼いた肉と野菜の煮込み、それにまだ湯気の立つパンが並んでいる。
アーヴェルの向かいでは、ミリカが頬をいっぱいに膨らませてパンを頬張っていた。その隣で、サリスが空いた椅子へちらりと目を向ける。
「お父さん、まだ帰ってこないね」
ミリカがもぐもぐと口を動かしながら言った。
「街道の片づけもあるから、少し遅くなるんじゃないかしら?」
サリスはそう言って、いつもと変わらない様子で食事を続けた。
アーヴェルも食事を口へ運びながら、昼間の出来事を思い返していた。
横倒しになった馬車。散らばった荷物。そして、あの弱々しい声。
三人とも無事だとバークスから聞いてはいた。それでも、意識を失っていた二人がその後どうなったのかまでは知らない。
食事を終えようかという頃、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「あ、お父さん!」
真っ先に反応したミリカが椅子から立ち上がる。
ほどなくして姿を見せたキーヴァルは、朝よりも少しくたびれて見えた。服のあちこちには土がつき、額には乾いた汗が残っている。
「おかえりなさい。ずいぶん遅かったわね」
「ああ。思ったより片づけに時間がかかってな」
キーヴァルは椅子を引くと、ようやく腰を下ろした。
サリスがすぐに食事を用意しながら尋ねる。
「全部、片づいたの?」
「ああ。思ったより時間はかかったけどな。三人とも大丈夫だ。意識を失ってた二人も目を覚ましたよ」
その言葉に、アーヴェルは思わず顔を上げた。
「ほんと?」
「ああ。片づけが終わったあと、診療所にも寄ってきた。三人とも大した怪我じゃないそうだ。打ち身や切り傷はあるけど、セリーヌも心配はいらないってさ」
「よかった……」
アーヴェルは小さく息を吐いた。
あのとき、もっと早く気づいていれば――そんなことを何度か考えていたからだ。
「荷物は?」
アーヴェルが食事を続けながら尋ねた。
「ほとんど回収できたよ。荷車を持って、みんなで街道まで戻ったんだ。馬車も壊れちゃいるが、どうにか村まで運んできた。今はリューベンに見てもらってる」
「直りそう?」
「すぐには無理だろうな。車輪も外れてたし、ほかにも何か所かやられてる。リューベンも、数日はかかるだろうって言ってたよ」
そこでキーヴァルは思い出したように付け加えた。
「そうそう。馬も見つかったぞ」
「あの馬車を引いてた二頭だ。街道を少し行った先の草原で、仲良く草を食ってた」
「ええ……??」
あまりに呑気な馬たちの姿を想像して、アーヴェルはなんとも言えない顔になった。
キーヴァルが笑う。
「まあ、馬も無事、荷物もほとんど無事。三人も無事だ。それだけでも十分だろ」
「うん」
昼間の出来事でどこか胸に引っかかっていたものが、ようやく消えた気がした。
キーヴァルは用意された食事に手を伸ばしながら、今度はアーヴェルを見た。
「そうだ、アーヴェル」
「なに?」
「明日、トーラと一緒に診療所へ行ってこい」
「診療所に?」
「あの三人がお前たちに会いたがってる。助けてもらった礼を直接言いたいんだとさ」
「僕たち、何もしてないよ?」
「何もしてないことはないだろ」
キーヴァルはパンをちぎりながら言った。
「お前たちが見つけなきゃ、発見はもっと遅れてたかもしれない。あの人たちにとっちゃ、十分助けてもらったことになるさ」
アーヴェルは少し考えてから、うなずいた。
「分かった。明日、トーラと行ってみる」
キーヴァルは小さくうなずくと、ようやく遅い夕食を口へ運び始めた。
◇
翌朝、アーヴェルはトーラと連れ立って診療所へ向かった。
昨日の騒ぎなどなかったかのように、フィンリッジではいつもの一日が始まっていた。道端では顔なじみの村人たちが言葉を交わし、遠くから家畜の鳴き声が聞こえてくる。
やがて診療所が見えてくると、その前に見覚えのある馬車が置かれていた。
昨日、街道脇で横倒しになっていた馬車だ。
泥に汚れた車体には木にぶつかった痕が生々しく残り、外れた車輪が傍らに立てかけられている。その前に一人の男がしゃがみ込み、車軸のあたりを覗き込んでいた。
この村の村長、リューベン・ハルダンだ。
村長という肩書きにはいささか似つかわしくない革の前掛けを身につけ、節くれだった太い指で車軸に触れながら、傷み具合を確かめている。
もっとも、その姿を不思議に思う村人はいない。
リューベンは村長であると同時に、長年この村の暮らしを支えてきた鍛冶師でもあった。
「村長、おはよう!」
二人の声がきれいに重なった。
リューベンは手を止め、車軸の下から顔を上げる。
「おう。お前ら、朝から元気だな」
白い髭を緩ませて笑うと、リューベンは立ち上がり、前掛けについた木屑を軽く払った。
「三人とも、もう起きてるぞ。セリーヌが中にいるから、行ってこい」
「うん!」
二人は揃って返事をすると、リューベンに手を振り、診療所の扉へ向かった。
診療所の扉を開けると薬草の青い香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
室内ではセリーヌが、三人と話をしていた。
「あら、来たわね」
アーヴェルとトーラに気づいたセリーヌが、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「おはよう、セリーヌさん」
「おはよう!」
二人が挨拶をすると、三人の視線が一斉にこちらへ向いた。
昨日、街道で倒れていた三人だった。
一人は頭に包帯を巻き、もう一人は腕に布を巻いている。それでも昨日とは違い、三人とも自分の足で立ち、こうして話ができている。
その姿を見て、アーヴェルは胸の奥に残っていたものが、ようやくほどけていくような気がした。
「君たちが……」
口を開いたのは、商人風の男だった。
「昨日、俺たちを見つけてくれた子たちだな?」
「うん!」
トーラが元気よく答える。その隣で、アーヴェルも小さく頷いた。
男は二人の前まで来ると、深く頭を下げた。
「ありがとう。君たちが見つけてくれなかったら、どうなっていたことか」
「俺たち、見つけただけだよ。助けたのは親父たちだし」
「それでもだ。君たちが知らせてくれなければ、その助けも来なかった」
そう言って、男は改めて二人を見た。
「俺はロケル。このフィンリッジから北に馬車で三日ほどのところにあるウグネルから来た。こっちは息子のコメルだ。世話になったね。」
紹介された少年が、少し照れくさそうに頭を下げる。
「コメルです。昨日は、本当にありがとう」
「僕はアーヴェル」
「俺はトーラ!」
「それから――」
「ペドラだ」
ロケルが紹介するより先に、残る一人が名乗った。
「二人の護衛をしている。世話になったな」
短い言葉だったが、その声にははっきりと感謝がこもっていた。
ひと通り挨拶を終えると、ロケルが何かを思い出したように手を打った。
「そうだ。君たちに礼がしたい」
「お礼?」
「ああ。昨日運んでもらった荷物があるだろう。あの中から、何でも好きなものを一つずつ選んでくれ」
「えっ、いいの!?」
真っ先に声を上げたのはトーラだった。
「ちょっと、トーラ……」
アーヴェルが袖を引く。
「なんだよ。いいって言ってるんだからいいだろ?」
「でも……」
「遠慮することはない」
ロケルが笑った。
「むしろ、そのくらいさせてもらわないと俺の気が済まん」
アーヴェルが困ったようにセリーヌを見ると、彼女も微笑みながら頷いた。
「いただいておきなさい。きっとそのほうが、ロケルさんも喜ぶわ」
「……うん」
「荷物なら、昨日バークスさんたちが運んでくれたわ。こっちよ」
セリーヌに案内され、二人はロケルとともに診療所を出た。
向かったのは、隣にあるリューベンの鍛冶場だった。
朝から開け放たれた作業場の奥、その脇に設けられた物置には、昨日馬車から運び出された木箱や麻袋がまとめて置かれていた。
ロケルはその中からいくつかの木箱を引き寄せると、順番に蓋を開けていった。
「さあ、好きなものを選んでくれ」
「よっしゃ!」
待ってましたとばかりに、トーラが荷物を覗き込む。
布地に食器、革製品。小物や雑貨に混じって、何冊かの本や武具も収められていた。
その中でトーラの目が、ぴたりと止まった。
「これ!」
迷うことなく手を伸ばす。
取り出したのは、鞘に収められた一本のロングソードだった。
「おいおい、本当にそれでいいのか?」
「うん!」
トーラは満面の笑みで答えた。
鞘ごと両手で持ち上げ、嬉しそうに眺めている。
「アーヴェルは?」
「僕は……」
促され、アーヴェルも荷物を見て回った。
けれど、なかなか手を伸ばせない。
どれもロケルの商品なのだと思うと、どうしても遠慮してしまう。
そんな中、一冊の本が目に留まった。
ほかの商品に挟まれるように置かれた、少し厚みのある本だった。
手に取って表紙を見る。
『英雄クラウス物語 第一巻』
英雄クラウスの冒険を描いた、ブレノリア大陸では広く知られたおとぎ話だ。アーヴェルも幼い頃から何度となく聞かされ、本でも読んだことがある。
けれど、手にした本はアーヴェルの知っているものとは少し違っていた。
表紙をめくると、見たことのない挿絵が目に飛び込んでくる。
もう一枚めくる。
そこにも、知らない挿絵が描かれていた。
同じ物語なのに、初めて読む本のようだった。
アーヴェルの目が、わずかに輝いた。
「……これがいい」
「それか?」
ロケルはアーヴェルが手にした本を見ると、少し困ったように眉を上げた。
「そいつは一巻しかないぞ。二巻以降ははないが……それでもいいのか?」
「うん。これがいい」
「本当にそんなものでいいのか?」
「これがいい!」
「これがいい!」
二人の声が、ぴたりと重なった。
一瞬の沈黙のあと、ロケルが吹き出した。
「はははっ! そうかそうか。なら、二つとも君たちのものだ」
トーラは剣を抱え、アーヴェルは本を胸に抱く。
選んだものはまるで違う。
それでも二人の顔には、同じような笑みが浮かんでいた。
「あら」
そんな二人を見ていたセリーヌが、ふと空を見上げた。
「あなたたち、そろそろ教会へ行く時間じゃない?」
「え?」
二人は顔を見合わせた。
「あっ!」
「やべっ!」
慌てて荷物を抱え直す。
「ロケルさん、ありがとう!」
「ありがとうございます!」
「ああ。こちらこそ、本当にありがとう」
二人はロケルたちにもう一度頭を下げると、教会へ向かって駆け出した。
トーラの腕には一本の剣。
アーヴェルの胸には、一冊の本。
昨日まで持っていなかった宝物を、それぞれ大事そうに抱えながら。