Old Unknown Novel

プロローグ

エラムノーバの世界を舞台にした物語の始まり。

本文

 青く澄んだ空を、一羽の小鳥が横切っていった。

 翼を傾け、その遥か下に広がるフィンリッジ村を見下ろす。

 朝の光を浴びた村では、家々の屋根から細い煙が立ちのぼり、畑ではすでに村人たちが働いていた。のんびりと車輪を軋ませる荷車を、籠を抱えた女が追い越していく。どこかの家から漂う朝餉の匂いに誘われたのか、一匹の犬が忙しなく鼻を動かしていた。

 いつもと変わらない、穏やかな朝だった。

 村の上をゆるやかに旋回した小鳥が、一軒の家の屋根へ舞い降りる。

「お兄ちゃーん! 早くしてよー!」

 朝の静けさを吹き飛ばす声に、小鳥は驚いたように屋根を蹴り、空へ逃げていった。

「聞こえてるー?」

「聞こえてるよ! すぐ行く!」

「さっきもそう言ったじゃん!」

 庭に立つミリカは、二階の窓を見上げて頬を膨らませた。

 すぐそばでは、父のキーヴァルが三本の木剣を確かめている。一本を軽く振って柄の具合を確かめると、残りの二本とともに庭の端へ並べた。

「父さん、もう始めようよ」

「三人揃ってからだ」

「でも、お兄ちゃん全然来ないよ」

「もう来るさ」

「それ、さっきも聞いた」

 返す言葉をなくしたキーヴァルが、苦笑を浮かべた。

 その頃、アーヴェルは自分の部屋で本を閉じようとしていた。

 閉じようとは、していた。

 栞を挟もうと頁を持ち上げた、そのときだった。次の頁に描かれた挿絵が、ほんの少しだけ目に入る。

 見たこともない鳥だ。

 長い尾羽に、大きく広げた翼。その横には、遠く離れた土地に棲む鳥だという短い説明が添えられている。

「……こんなのいるんだ」

 気づけば文字を追っていた。

 あと三行。

 三行だけ読んだら行こう。

「アーヴェル」

 階下から母の声がした。

「ミリカが待ってるわよ」

「あっ……。うん、今行く!」

 慌てて返事をして、今度こそ栞を挟む。

 ところが、本を閉じる寸前に最後の一行が目に入った。

 その鳥は、この辺りでは決して見ることができない。

 アーヴェルは、もう一度だけ挿絵に目を落とした。

 自分の知らない場所には、自分の知らない生き物がいる。

 当たり前のことなのかもしれない。それでも本を開くたび、自分が知っている世界がほんの少しだけ広がっていくような気がした。

「……いつか見てみたいな」

 小さく呟き、ようやく本を閉じる。

 そのとき、庭から元気な声が聞こえてきた。

「キーヴァルさん、おはよう!」

「おう、おはよう。今日も早いな」

「ミリカ! もう始めてる?」

「まだ! お兄ちゃんが来ないの!」

「また本?」

「また本!」

 二人の声が見事に重なった。

 閉じた本を抱えたまま、アーヴェルは黙り込む。

「……今行くってば」

 誰にも聞こえない声で呟き、本を机に置いた。

 間もなく、窓の外から木剣を打ち合わせる乾いた音が聞こえてきた。

 どうやら二人とも、とうとう待つのをやめたらしい。

 アーヴェルは机の本を名残惜しそうにもう一度だけ見てから、急いで部屋を飛び出した。

          ◇

 庭へ出ると、トーラの振り下ろした木剣をミリカが受け止めたところだった。

 乾いた音が庭に響く。

 トーラが押し込み、ミリカも負けじと踏ん張る。二人とも目の前の相手に夢中で、アーヴェルが来たことには気づいていない。

「遅くなってごめん」

 庭の端で腕を組んでいたキーヴァルが振り向いた。

「やっと来たか」

「うん」

「本は面白かったか?」

「……面白かった」

 呆れたようにキーヴァルが笑う。

「正直でよろしい」

 アーヴェルも小さく笑い、再び打ち合いへ目を向けた。

 ミリカが横薙ぎに木剣を振るう。トーラは一歩退いてかわすと、そのまま踏み込み返した。

 ミリカは食らいついた。

 二度までは受けきった。だが三度目、木剣を大きく弾かれ、体勢が崩れる。

 トーラはその隙を逃さなかった。

 木剣の先が、ミリカの肩へ軽く触れた。

「そこまで!」

「あーっ! もうちょっとだったのにっ!」

 ミリカは悔しそうに木剣を握り直す。

「もう一回!」

「駄目だ」

「なんで!」

「負けてすぐやり直してたら、負けた理由を考えなくなるだろ」

 口を尖らせるミリカの前まで歩いていき、キーヴァルは木剣を持ち上げた。

「最後の一撃だけじゃない。その前から少しずつ押されてた。トーラの剣ばかり見て、足元がお留守になってたぞ」

 言われて、ミリカは自分の足を見る。

「剣だけで戦うんじゃない。足も使え。それから、相手を見るときはここだけじゃなく――」

 キーヴァルは自分の木剣で、トーラの剣先を示した。

「全体を見る」

「……うん」

「次はもっとやれるさ」

 その一言で、ミリカの表情が少しだけ明るくなる。

「トーラもだ」

「俺も?」

「勝ったからって終わりじゃないぞ。最後、ミリカが崩れなかったらどうするつもりだった?」

「え?」

 それまで浮かべていた得意げな笑みが消えた。

「……もう一回、打つ?」

「それじゃ遅い」

「じゃあ……」

 トーラは木剣を持ったまま考え込んだ。

 その様子を眺めながら、アーヴェルは庭の端に置かれた木剣を一本拾う。

 何度も握ってきた木剣だ。手に馴染む感触を確かめるように、軽く振った。

「よし」

 キーヴァルがアーヴェルを見る。

「次はアーヴェルだ」

「うん」

「トーラ」

「はい!」

 返事をしたトーラを、キーヴァルは一度じっと見た。

 ミリカと何度も打ち合ったばかりだというのに、息はさほど乱れていない。

「続けてになるが、少し休むか?」

「いらない!」

 額の汗を腕で拭い、トーラは木剣を握り直した。

「まだまだ余裕だ!」

「元気だな、お前は」

 キーヴァルが笑う。

「アーヴェルは?」

「僕?」

「トーラは休まなくていいそうだ」

「僕は今来たばっかりだよ」

「そうだったな」

「父さん……」

 ミリカが吹き出し、トーラまでつられて笑った。

「ほら、始めるぞ」

 キーヴァルに促され、アーヴェルとトーラは向かい合う。

 木剣を構えた途端、トーラの顔からさっきまでの笑みが消えた。

 こういうところは昔から変わらない。

 普段は何をしていても騒がしいのに、剣を握って相手と向き合えば、驚くほど真剣になる。

 アーヴェルは木剣を握る手に、わずかに力を込めた。

「始め!」

 声と同時に、トーラが地面を蹴る。

 ――速い。

 分かっていた。何度も相手をしている。

 それでも真正面から迫る一撃を前にすると、毎回そう思わされる。

 アーヴェルは半歩退きながら木剣を合わせた。

 ガッ、と鈍い音が鳴り、両腕に衝撃が走る。

 押し返して打ち込むが、トーラは難なく受けた。そのまま木剣を滑らせるようにアーヴェルの剣を外し、横から打ち込んでくる。

 身を引いたアーヴェルの胸元を、木剣がすれすれに通り過ぎた。

「おっ」

 キーヴァルの声が聞こえる。

 かわした勢いのまま踏み込んだ。

 トーラの脇が空いている。

 いける。

 そう思った瞬間、トーラの足が動いた。

 半歩ずれた体が、狙った場所からするりと逃げる。

「えっ」

 目で追ったときには、もう遅かった。

 バシッ、と背中に木剣が叩き込まれる。

「痛っ!」

「そこまで!」

 振り返ると、トーラは木剣を肩に担ぎ、歯を見せて笑っていた。

「よし!」

 アーヴェルは肩を落とす。

「……また負けた」

「また俺の勝ち!」

「分かってるよ」

「今のは惜しかったぞ、アーヴェル」

 キーヴァルが二人のもとへ歩いてきた。

「最後、トーラの剣を目で追っただろ」

「うん」

「剣を見てから動いたんじゃ間に合わない。相手の肩と腰を見ろ。次にどこへ動くか、剣より先に教えてくれる」

 アーヴェルは、今の攻防を頭の中で思い返す。

 確かに、木剣ばかりを見ていた。

「もう一回やったら勝てるかな」

「おう、やるか?」

 すぐさまトーラが木剣を構える。

「調子に乗るな」

 キーヴァルが、その頭を軽く小突いた。

          ◇

 午後になっても、朝から村を包んでいた穏やかな陽気は変わらなかった。

 庭の大きな木が落とす心地よい木陰。その下の木のテーブルで、アーヴェルは朝の続きを読んでいた。

 頁をめくるたび、見たことのない動物や遠い土地の話が現れる。

 すぐ近くでは、トーラが木剣を振っていた。

「九十八……九十九……百!」

 振り終えた木剣を下ろし、額の汗を拭う。

 ようやく休むのかと思ったが、すぐにまた構えた。

「一!」

 アーヴェルは本から顔を上げた。

「まだやるの?」

「当然だろ」

「朝もあれだけやったのに?」

「朝は朝。今は今」

「よく飽きないね」

「お前にだけは言われたくない」

 アーヴェルは手元の本を見る。

「……それもそうか」

 そのとき、家の窓が開いた。

「二人とも」

 顔を出したサリスが庭を見渡す。

「今日は釣りに行かないの?」

「行く!」

 トーラが即答した。

「じゃあ行こうぜ」

「うん」

 アーヴェルは栞を手に取る。

 その様子を見て、サリスが窓辺で小さく笑った。

 ちょうどそのとき、家の前を通りかかった男が、庭にいるトーラに気づいて足を止めた。

 腰には剣。身につけているのは、村の自警団の簡素な装備だ。

「お、やっぱりここにいたか」

 トーラが振り返る。

「なんだよ?」

「団長が呼んでるぞ」

「げっ……」

 露骨に嫌そうな顔をするトーラに、アーヴェルも本から顔を上げた。

「なんで嫌そうなんだよ?」

「親父が俺を探してるときは、大抵ろくな用事じゃないんだよ……」

「早く行かないと怒られるよ」

「はぁ……行ってくるか」

 自警団員に促され、トーラは渋々木剣を置いた。

 アーヴェルがひらひらと手を振り、そのまま本へ目を戻す。

 トーラは何か言い返そうとしたものの、自警団員に肩を押され、そのまま連れていかれた。

 アーヴェルは気にする様子もなく、続きを読み始めた。

 しばらくして。

「なあ、アーヴェル」

 聞き慣れた声に顔を上げる。

トーラは狩猟用の剣を腰に差して戻ってきた。

「用事は済んだの?」

「済んだっていうか……増えた」

「なにそれ」

「ちょっとフラッファー退治に付き合ってくれよ」

 アーヴェルはすぐに本へ視線を戻した。

「剣を持ってるからそんなことだろうと思った。フラッファーなんか一人で狩れるでしょ。今いいところなんだよ」

「数が多いんだって。畑に入り込んで、また作物を食い荒らしてるらしい」

「また? あいつら、すぐに増えるね」

 少し考えてから、アーヴェルは本に栞を挟んだ。

「……分かった。行こうか」

「助かる! あいつら、追い詰めるとジェル吐くから、一人だと面倒なんだよ」

「あれ臭いもんね」

「この前なんか服につけられて、何日経っても臭い取れなかったんだからな」

「覚えてるよ。しばらく近寄りたくなかったもん」

「ひどくないか?」

 アーヴェルは本を閉じ、椅子から立ち上がった。

「じゃあ、行こうか」

「お前、聞いてる?」

「聞いてるよ」

 閉じた本へ、ちらりと目を落とす。

「早く終わらせよう。帰ったら続き読みたいから」

「よし、決まり!」

 途端に元気になったトーラを見て、アーヴェルは小さく息を吐いた。

          ◇

 村の外れの畑では、何匹ものフラッファーが我が物顔で作物の葉を食べていた。

 白くふわふわした毛に、長い耳。

 見た目だけなら、とても害を与えるような生き物には見えない。

 だが、畑のあちこちでは若い葉が食い荒らされ、土には小さな足跡がいくつも残されている。

「……思ったよりいるね」

「だから言っただろ?」

 トーラが腰の剣を抜く。

 アーヴェルは畑を見回した。

「どこからやる?」

「あっちの三匹から」

 トーラが畑の端を示す。

 三匹のフラッファーが、まだ二人に気づかず草を食んでいた。

「アーヴェル、いつものアレで追い詰めてくれよ。俺がトドメを刺すからさ」

「分かった」

 アーヴェルが一歩踏み出した途端、フラッファーの長い耳がぴくりと動いた。

 三匹が顔を上げる。

 こちらに気づいた。

 次の瞬間には、一斉に駆け出していた。

 アーヴェルも地面を蹴る。

 足元へ風が集まり、衣服の裾がふわりと浮いた。

背後に生んだ風圧で身体を押し加速。逃げるフラッファーとの距離はたちまち縮り、その勢いのまま横へ回り込んで逃げ道を塞ぐ。

驚いた三匹は進路を変えるが、その先では、すでにトーラが待ち構えていた。

「よし、こっち来い!」

 一匹。

 続けて、もう一匹。

 二人は慣れた手順で、フラッファーを仕留めていった。

「なあ」

 次の獲物を探しながら、トーラが言った。

「それ、朝の試合でも使えばよかったんじゃないか?」

「なにが?」

「今のだよ。風で速くなるやつ」

 アーヴェルは首を傾げる。

「なんで?」

「使ったら俺に勝てたかもしれないだろ」

「だって、剣の稽古だったじゃん」

「勝負だろ?」

「剣の稽古だよ」

「勝てばいいじゃん」

「それじゃ父さんに剣を教わってる意味ないでしょ」

「……そういうもんか?」

「うん」

 トーラは納得したのかしていないのか、頭を掻いた。

「まあいいや。次、あそこ!」

 少し離れた場所を、一匹のフラッファーが駆けていく。

 アーヴェルが追おうとした。

「アーヴェル、そっち行った!」

 だが――動かなかった。

「おい、アーヴェル! 逃げられるぞ!」

 フラッファーはそのまま草むらへ飛び込み、姿を消す。

「ったく、何やってんだよ」

 トーラが駆け寄ってきた。

「おい、アーヴェル。何やって――」

「シッ!」

 アーヴェルは口元に人差し指を立てた。

 トーラも反射的に口を閉じる。

「あれ見ろ」

 声を潜めたアーヴェルの視線は、畑の向こうへ向けられていた。

「……なんか、やばくない?」

「え?」

 指差した先を、トーラも見る。

 草木の陰に、何かが倒れていた。

 一見すれば、大きな岩にも見える。

 だが、違う。

 馬車だった。

 街道から外れた場所に横倒しになり、片方の車輪は外れている。積んでいたらしい荷物も、辺り一面に散乱していた。

 風が吹いた。

 草がざわりと揺れ、その向こうに横たわる馬車の姿が、さらにはっきりと現れる。

「……なんだ、ありゃ」

 トーラの声から、さっきまでの軽さが消えていた。

 二人は動かない。

 ただ、壊れた馬車を見つめている。

 やがてトーラが、小さな声で言った。

「親父たちに知らせに行こうぜ」

 アーヴェルは答えなかった。

 草木の向こうに横たわる馬車から、どうしても目を離すことができなかった。

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