Old Unknown Novel

第三話 相似

教会での勉強を終えたアーヴェルが、『英雄クラウス物語』を読み進める第三話。

本文

教会へ着くと、すでに何人かの子供たちが机に向かっていた。

 古びた教会の壁には、大小さまざまな絵が飾られている。神話や聖人を描いたものもあれば、森を彩る草花や、雪に覆われたフィンリッジの風景を描いたものもある。

 どれも、この教会の司祭であるカシアンが自ら描いたものだ。

 開け放たれた窓から朝の風が吹き込み、机に広げられた紙をかすかに揺らしている。

「遅い!」

 二人の姿を見つけるなり、ミリカが声を上げた。

「仕方ないだろ。診療所に寄ってたんだから」

 アーヴェルが答えると、トーラもその横で大きく頷いた。

「そうそう。俺たちは忙しかったんだよ。なんたって昨日、人助けをしたんだからな!」

「二人とも、お話はそこまでにしましょうか」

 穏やかな声に振り向くと、カシアンが二人を見て微笑んでいた。

「遅れた分は、しっかり勉強してくださいね」

「はーい」

 二人は空いている席へ腰を下ろした。

 フィンリッジ村には学校のような正式な教育機関はない。そのため村の子供たちは週に三度、この教会へ集まり、カシアンから読み書きや一般的な常識、道徳などを教わっている。

 アーヴェルは渡された課題に目を通すと、すぐに手を動かし始めた。

 紙の上を文字がすらすらと埋めていく。

 一方、その隣では――。

「うー……」

 トーラが頭を抱えていた。

 少し離れた席では、ミリカも紙と睨み合ったまま手を止めている。

「なんでこんなに似た文字がいっぱいあるのよ……」

 ミリカが小さくぼやいた。

 アーヴェルはちらりと二人を見ると、小さく笑って再び紙へ目を落とした。

 しばらくして、課題を終えたアーヴェルが顔を上げる。

 隣から、先ほどまで聞こえていた唸り声が消えていた。

 トーラは机に頬杖をつき、目を閉じている。

 その前に、いつの間にかカシアンが立っていた。

「トーラ、起きなさい」

「……起きてる」

「目を閉じている人は、普通は寝ていると言うんですよ」

 周りの子供たちから、くすくすと笑い声が上がった。

 トーラはようやく顔を上げ、眠そうに目を擦った。

「司祭。今日は朝から診療所に行ってたから」

 アーヴェルが助け舟を出す。

「ああ、聞いていますよ。昨日は二人とも、お手柄だったそうですね」

 カシアンは二人の働きを認めるように、穏やかな笑みを浮かべた。

「でも、居眠りをしていい理由にはなりませんね」

 そう言いながらアーヴェルの紙を手に取ったカシアンは、課題を確かめるうちに少し感心した様子を見せた。

「全部できていますね」

「うん」

「アーヴェルには、このくらいの読み書きはもう簡単すぎますね」

「えー!」

 真っ先に声を上げたのはミリカだった。

「私、まだ半分も終わってないのに!」

「だからちゃんと勉強しろよ」

「お兄ちゃんだけズルい!」

「なんでだよ」

 教会の中に、子供たちの笑い声が広がった。

     ◇

 昼過ぎ。

 家へ戻ったアーヴェルは、自分の部屋の机に一冊の本を置いた。

 今朝、ロケルから礼としてもらった『英雄クラウス物語』の第一巻だった。

 英雄クラウスの物語は、アーヴェルも幼い頃から何度となく聞いてきた。

 戦によって両親を失った少年クラウスが、父の遺した剣を手に鍛錬を重ね、やがて軍へ身を投じる。類いまれな剣の才と戦術の才能を発揮した彼は、数々の戦いで功績を重ね、いつしか人々から英雄と呼ばれるようになった。

 物語の始まりは、ブレノリア大陸北方。

 後に大国となるエルネストが、まだ小さな公国だった頃。

 紅い湖、ラーカスト湖のほとりにある小さな村エンゴーサで、幼いクラウスは父と母に愛されながら穏やかに暮らしていた。

 しかし、八歳の冬。

 公国の北境で戦が始まり、父は兵として徴集される。

 ――すぐに戻る。

 そう言って家を出た父が、再びクラウスの前に姿を見せることはなかった。

 アーヴェルはページをめくった。

 一枚、また一枚。

 何度も聞いたはずの物語なのに、文字を追い、挿絵を眺めながら読むと、まるで初めて触れる物語のように感じられた。

 気がつけば、外から聞こえていた村人たちの声も、窓辺を通り過ぎる風の音も、耳に入らなくなっていた。

 どれくらい、そうしていただろう。

「アーヴェル」

 階下から母の声が聞こえた。

「なに?」

「もうすぐ夕食ができるから、お父さんを呼んできてくれる? ハースルートにいるはずだから」

「うん、分かった」

 アーヴェルは返事をすると、読みかけのページに目印を挟んで本を閉じた。

     ◇

 村で唯一の酒場兼宿屋、ハースルート。

 アーヴェルが扉を開けると、酒と料理の匂いに混じって、村人たちの話し声が聞こえてきた。

 一階には二十席ほどの酒場があり、二階には旅人を泊めるための客室が六部屋ある。決して大きな宿ではないが、薬草を求めて村を訪れる旅人や、仕事を終えた村人たちが集まる憩いの場となっていた。

「こんばんは、マルタさん」

「あら、アーヴェル。こんばんは」

 女将のマルタに挨拶を返され、アーヴェルは店内を見回した。

 父の姿はすぐに見つかった。

 キーヴァルは奥の席でバークスと向かい合って座っている。

 そして、二人と同じ卓にはロケルの姿もあった。

その隣には、息子のコメルも座っている。

大人三人の前には酒の入った杯が置かれていた。

「父さん」

「ん?」

 キーヴァルが振り向いた。

「母さんが、もうすぐ夕食だから帰ってきてって」

「ああ、もうそんな時間か」

 キーヴァルが杯を置いたそのとき、酒場の扉が勢いよく開いた。

「親父! おふくろが、もう飯だから帰ってこいって!」

 入ってきたのはトーラだった。

「あれ、アーヴェル」

「トーラも?」

「お前も親父を呼びに来たのか?」

「うん。母さんに頼まれて」

「俺もだ」

 二人は顔を見合わせた。どうやら、迎えに来るタイミングが重なったらしい。

「なんだ、二人とも迎えが来たのか」

 ロケルが愉快そうに笑った。

「悪いな、アーヴェル。これだけ飲んだら帰るから、ちょっと座って待っててくれ」

「うん」

 キーヴァルに言われ、アーヴェルは空いている椅子に腰を下ろした。トーラもバークスの隣へ座る。

 卓上には酒のほか、香草を使った料理がいくつか並んでいる。

「そういえば、ロケルさん」

 キーヴァルが口を開いた。

「昨日はあんなことになって聞きそびれたが、今回は何を仕入れにフィンリッジまで?」

「薬草とポーションだよ」

 ロケルはそう答えると、杯を傾けた。

「ウグ=ネルでも手に入るんじゃないのか?」

 バークスが尋ねる。

「もちろん手には入るさ。ただ、最近は少し事情が変わってきてね」

 ロケルは杯を卓へ戻した。

「シネスタディアとの国境で、小競り合いが増えてるんだ」

 キーヴァルの表情がわずかに変わった。

 かつてベルモーシア公国軍に所属し、シネスタディア方面の防衛隊を率いていた彼にとって、その名は馴染みのないものではなかった。

「そんなに増えてるのか?」

「少なくとも、ウグ=ネルじゃ怪我人が増えてる。そうなれば当然、薬草もポーションも売れる。特に回復力が高くて質のいいものはね」

 ロケルは口元に笑みを浮かべた。

「需要が増えているなら、商人にとっちゃ商機だ。品薄になってから慌てて探すより、今のうちに仕入れ先を確保しておいた方がいい」

「なるほどな」

 バークスが感心したように頷く。

 大人たちが話を続ける中、アーヴェルはロケルの隣に座るコメルへ目を向けた。

「コメル、もう怪我は大丈夫?」

 声をかけると、コメルはすぐに頷いた。

「うん。もう大丈夫」

 そう答えて笑う姿は、朝に診療所で会ったときよりも元気そうに見えた。

「今朝も言ったけど、本当にありがとう。二人が見つけてくれなかったら、どうなってたか分からないから」

「だから、俺たちは見つけただけだって」

 トーラが少し照れくさそうに言った。

「でも、あそこで見つけてもらえなかったら、助けも来なかったよ」

「まあ……それならいいけど」

 トーラはそう言いながら、どこか嬉しそうだった。

 アーヴェルは昨日の光景を思い返す。

 街道から外れて横倒しになった馬車。外れた車輪と、辺りに散らばっていた荷物。

 そこで、ふと気になった。

「そういえば、コメル」

「なに?」

「どうして馬車、あんなところで倒れてたの?」

「あ、それ俺も聞きたかった」

 トーラも身を乗り出す。

 コメルは少し考えるように視線を上げた。

「街道を走ってたら、急にワイルドボアが飛び出してきたんだ」

「ワイルドボア?」

「うん。馬がびっくりして、急に暴れだして……」

 コメルは両手を動かしながら、そのときの様子を思い出す。

「父さんが手綱を引いてたんだけど、馬が暴れて、馬車がすごく揺れて……。そのとき、ペドラが僕を庇ってくれたんだ。そのまま馬車が街道から外れて、そこからは僕もよく覚えてなくて……気がついたら診療所にいた」

「じゃあ、あの馬二頭がいなかったのも、そのとき逃げたからか」

 トーラが納得したように頷く。

「たぶん。あとで二頭とも見つかったって父さんから聞いたよ」

「よかったね」

「うん」

 コメルが笑う。

 アーヴェルは、昨日草むらの向こうに横たわっていた馬車を思い浮かべた。

昨日はただ壊れて横たわっているだけに見えた馬車も、そこへ至るまでにはそんな出来事があったらしい。

「ワイルドボア一匹で、あんなことになるんだな」

 トーラが呟くと、コメルも小さく頷いた。

 その間にも、隣では大人たちの話が続いていた。

「それで、わざわざこんな辺境まで来たのか」

「フィンリッジの薬草は質がいい。それに、ここで作られるポーションも通常のものより回復効果が高い。多少遠くても、足を運ぶだけの価値はあるさ」

 フィンリッジで採れる薬草は、古くから質の高さで知られている。それらはツァダルをはじめ、公国内の各地へ運ばれ、錬金術師や薬師たちによって薬品やポーションの材料として使われていた。

 アーヴェルは黙って大人たちの話を聞いていた。

 シネスタディア。

 国境。

 小競り合い。

 どれもフィンリッジで暮らす彼にとっては、どこか遠い場所の出来事のように思えた。

 つい先ほどまで読んでいた本の中でも、戦によってクラウスの暮らしは大きく変わっていた。

けれど、それは昔の物語だ。

 国境で起きている小競り合いも、自分たちの暮らしを変えるようなものには思えなかった。

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